説明板
船橋御殿跡の説明板
市指定文化財(史跡) 「船橋御殿跡と東照宮」
1965年(昭和40)3月17日指定
徳川家康は狩猟を好み、各地に狩猟用の「お茶屋」又は「御殿」とよばれる休憩所や宿泊所を建てさせた。慶長19年(1614)家康は上総土気、東金で狩猟を行なったが、船橋御殿の建造もその頃であろうと推定される。家康は元和元年(1615)11月ここに宿泊した。家康の宿泊はこの一回だけであったが、秀忠はその後狩猟のたびに立ち寄ったと考えられる。将軍家の東金狩猟が寛永7年(1630)頃に終止した後も船橋御殿は存続していたが、寛文末年頃(1670年代)に廃止となったようである。船橋御殿の面積は約404アールで、海老川西側の土手に囲まれた地域であった。その後、この地は大神宮宮司の富氏に与えられ、開墾されて畑地となった。
 東照宮は富氏が建立したもので、この場所が御殿の中心であった場所であると伝えられている。
1992年3月 船橋市教育委員会

成田街道入口の説明板
「御成街道(東金街道)について」
御成街道(東金街道)は、慶長18年(1613)12月徳川家康の命を受けた佐倉藩主土井利勝が三日三晩で造成したと伝えられています。
 家康の東金への鷹狩等のために作られたとも言われ、船橋から東全まではぼ直線で結ばれています。徳川家康・秀忠・家光が御成街道を通り東金周辺で鷹狩等を催しました。将軍や大御所がお通りになる=お成リになると言うのでお成り街道と呼ばれたと言います。
(前原西1丁目)は成田街道と東金街道との分岐点です。明治12年(1879)に成田山の信徒と地元前原の有志が建てた道標があり、前面には「右成田山道」と刻まれています。また右側面は「成田山 従是房総街道」、左側面には「成田山道」と刻まれています。
江戸時代、主要な街道などには、一里ごとに一里塚をおいて松などの木を植え旅人の目印としていましたが、船橋を過ぎると一里塚は次の様におかれていました。
@一里塚  習志野市実籾
A向山   千素市花見区犢橋
B焼塚   千素市若葉区若松町
C提灯塚  千素市若葉区千城台東
D椎の古木 千素市若葉区豊田町
E一里塚  八街市上砂
F殿山   東金市黒田
 一里塚  東金市油井

藤崎の説明板
「東金御成街道」
東金街道は、徳川家康が上総国東金(現東金市)での鷹狩りに向かうための通行路として造られたと言われ、御成街道とも呼ばれます。船橋を起点として、市内の藤崎・大久保新田・実籾(みもみ)を通り、犢橋(こてはし)・金親(かねおや)・小間子牧(おまごまき)を経て東金に至る約37キロメートルの道です。
慶長十八年(1613)12月、家康は翌年正月に東金で鷹狩りを行うため、佐倉藩主土井利勝に東金までの新道築造を命じ、沿道の村に工事が割り振られ、「提灯街道」「一夜街道」の別名があるように、昼夜兼行の工事でごく短期間のうちに完成させたと伝えられています。ただし、家康がこの道を初めて使ったのは元和元年(1615)11月ですので実際の完成は、この頃だったと考えられます。
 この道は鷹狩りのためだけでなく、政治的・軍事的な理由から造られたという説があり、また、家康の鷹狩りには軍事訓練・周辺諸大名の牽制・権威の誇示・庶民の視察などの目的もあったと言われています。徳川秀忠も鷹狩りのためにこの道を何回か通行しましたが、寛永7年(1630)を最後に東金での鷹狩りは行われなくなり、この道は役人の通行路・民間の物資輸送路・庶民の生活道となり、大部分は今日も道路として使われています。
 なお、ここから南東100メートルほどの位置に一部が残る藤崎古道は、東金(御成)街道以前の道の名残りであると伝えられています。
平成21年3月 習志野市教育委員会

「大宮大原神社縁起」
この神社は、伊勢神宮御祭神の天照大御神の親 イザナギ大宮父 イザナミ大原母 の二神が祀られている。天治元年(1124)実籾本郷に創立され、門前を通じる徳川家康公のお成街道完成と共に現在の場所に遷座されたのが、文禄元年(1592)である。
御祭神が男女二柱の為、遠い昔から縁結の神として広く知られている。
以下略。

椎の木の説明板
「御成街道と古木”椎ノ木”」
所在地:千葉市花見川区天戸町756-2
御成街道は、船橋御殿から東金御殿までの10里15町(約37km)、道幅3間(約5.5m)のほぼ一直線の道路で、徳川家康の東金への鷹狩り(慶長19年正月)にあたリ、佐倉薄主土井利勝が沿線の村々に工事区間を分担して昼夜兼行で造らせたので、別名「一夜街道」とか「提灯街道」などと呼ばれています。
 ここには街道に面して、樹齢が相当経った古木”椎ノ木”の根元近くに”六十六部供養塔”、天明7年(1787)が建っています。これは、巡礼(六部)行脚の供養碑で、天戸村の人々の心を伝える貴重な文化遺産です。また、ここから東金方向へ200m程行った左側の花島観音入ロに建っている供養塔とともに大切にしてください。
平成4年3月 千葉市教育委員会

駒形大仏の説明板
千葉市指定有形文化財 「長沼の駒形大仏」
指定日 1974(昭和49)年9月27日
長沼町はもと、長沼新田と呼ばれ、寛文12年(1672)に江戸の町人4人によって出された開発願いが許可されて成立した新田村であった。駒形観音堂は、元禄16年(1703)の大仏開眼入仏に際し、大巌寺16世本蓮社然誉上人沢春大和尚が馬頭観音を本尊として開基した。
 駒形大仏は像高約2.4mを測り、腹前で定印を結ぶ如来形坐像で、掌上に持物をのせていた痕跡がある。頭部は割込型鋳造で、体部は別鋳した各部を接合して造っている。衣文の膝上より背面一帯に、尊像の造立に浄財を寄附した60ケ村の念仏講中名が刻まれ、また刻銘により元禄16年鋳物大工橋本伊左衛門藤原重広の作であることが知られている。もとは今の堂より西南にある駒形千軒に安置されていたが、元文4年(1739) 3月に移座し、その際の損所を修復した記録が、向かって右膝に刻まれている。江戸時代の大規模鋳銅像として有数の像である。
千葉市教育委員会

旧鴇田家住宅のパンフレット
旧鴇田家住宅の概要
平成17年(2005)3月29日 千葉県指定有形文化財指定
旧鴇田家住宅は、享保12年(1727)から翌13年にかけて東金(御成)街道沿いに建築され、江戸時代に実籾村の名主をつとめた鴇田家の住居として、平成3年(1991)まで使用されてていました。平成12年10月にほぼ建築当初の姿で移築復原され、同年11月に開館しました。
 L字型に曲がった主屋は、かつて東北地方に多く分布していた「曲屋」であり、南関束ではきわめて珍しい建築様式です。また、この住宅は、身分の高い人が来訪した時に使う「ゲンカン(玄関)」や、その供の者が待機した「トモマチべヤ(供待ち部屋)」、江戸時代の民家としては貴重な客便所など、名主の家にふさわしい特色を伝えています。
 「ドマ(土間)」では民具を展示し、午前中はカマドで火を焚いておリます。主庭「上宿庭」では、水琴窟が奏でる安らぎの音色と、四季を彩るイロハモミジやロウバイ、サンシュユなどの植物をお楽しみいただけます。
※天候により、カマドで火を焚かない日があります。

提灯塚説明板
「史跡 ちょうちん塚」
お成り街道をはさんで向かいあう高さ三米ほどの盛土は「ちょうちん塚」または「一里塚」と呼ばれている。半分ほと削られてしまったのが、惜しいが慶長19年(西暦1614)徳川家康の命令で、佐倉藩主、土井利勝が没道の村人を動員して船橋から東金まで約38粁米の直線を、三日三晩で造ったと伝承される。
この道は、別名「一夜街道」というが、家康の強大な権カぶりがしのばれます。
この塚は、起伏のある下総台地の高所につくられており、道すじをきめるのにあかりをともし直線を定めたといわれる。なお、この地点より約一里(四粁米ほと)東金がりの富田町に「一里塚」とよばれる盛土と椎木の古木が現存するのをみると道のリを示す役目を果したかも知れない。
 将軍のお成りは、家康2回、秀忠8回、家光1回の計11回が「徳川実紀」に記録されている。
   干葉市立 千城台南中学校 郷土秘究クラプ

金親町大宮神社前説明板
「御成街道」
御成街道は、船橋御殿から東金御殿までの10里15町(約37km)、道幅3間(約5.5m)のほぼ一直線の道路で、慶長18年(1613)徳川家康が東金への鷹狩を第一の目的に、佐倉藩主土井利勝に命じて造らせたものである。家康の命令を受けた利勝は、沿線96ケ村の名主を召集して村ごとに工事区間を分担させて昼夜兼行で造ったので別名「一夜街道」とか「提灯街道」と呼ばれている。街道沿線には、ここ大宮神社から船橋方向へ約500mのところに、直線工事を見通すために造った提灯塚や、ここから東金方向へ約300mの左側の奥まった所に金光院という正応2年(1289)に創建したと伝える薬師如莱を本尊とする真言宗豊山派の名刹があり、家康が東金への鷹狩の際に立ち寄ったと伝えられている。金光院から東金方向へ更に約700m行ったところを左に入ると将軍家の宿泊所兼休息所に使用した御茶屋御殿跡かある。
   平成2年3月 千葉市教育委員会

金光院説明板
「千葉市文化財 両界曼荼羅」
金光院は正応2年(1289)貞成上人によって金親町小字中原の台地に創建されたが、天文20年(1551)火災のため焼失したので、千葉家の重臣原式部大夫胤清(北小弓城主)が山林20数町歩を寄進して現在地に再建されたと伝えられている真言宗豊山派の名刹である。
 当院の所蔵する曼荼羅は金剛界と胎蔵界のニ幅に分かれ、ともに幅1.0m、長さ1.54mで麻か絹に描か
れていて、寺創建時からのものとみられている。曼荼羅は大日経及び金剛頂経の教えによる悟の境地に達する仏教の宇宙観を絵画に表わしたもので、胎蔵界は胎児が母胎の中で育くまれ成長して行くがごとく、人が菩提心にめざめ悟に導びかれて行く姿を展開し、金剛界は人の心に宿す仏心を自覚させ、即身成仏の道を示している。胎蔵界受茶羅にはおよそ414尊を、金剛界には1461尊をそれぞれ鉄線描に精緻な切金文と彩色文を配し、巧みな描法で表現されている。
   平成10年3月 千葉市教育委員会

御茶屋御殿跡説明板
「御茶屋御殿跡」
徳川家康が東金への鷹狩りのために休息所として造営したものです。このような御殿は千葉市のほかに御成街道の起点である船橋に「船橋御殿」、お狩場である東金には「東金御殿」が設営されましたが、寛文年間(1661-72)に取り払われて、その跡地も現在大きく改変されています。この御茶屋御殿もほぼ同じ頃取り払わたものと考えられますが、跡地は良く旧態を止めています。
 御殿跡は一辺約11Omの方形で、周囲に幅約5mの薬研堀の空堀と高さ約2.5mの土塁をめぐらし、南北2ケ所
に出入ロがあって、その内側に桝形土塁が構築されていました。内部の遺構については発掘調査により、主殿と思われる基壇部分のほか、長大な掘立柱建物跡群や井戸跡の他、17世紀中葉の陶器などの遺物も発見されています。
   平成9年3月 千葉市教育委員会

風景谷(ふがさく)の説明板
「御成街道跡」
御成街道は、徳川家康が初代の佐倉城主土井利勝に命じて造らせた街道で、船橋−東金間約40キロメートル余をほぼ一直線に結んでいた。
 現在は殆どが舗装され、旧道の面影を残している部分は八街市沖地区と東金市滝地区のごく一部となってしまった。
 八街市内では、この後ろの山林中に僅かに昔の面影を止める地区があり、市指定文化財(史跡)に指定されている。
 ここから西の四街道方面へ走る街道は御成街道を舗装したもので、陸上自衛隊下志津駐屯地で一部途切れてはいるが、船橋市まで続いている。
平成17年4月 八街市教育委員会 
八街市文化財審議会

沖地区の説明板
「八街市指定文化財(史跡) 御成街道跡」
御成街道は、慶長18年(1613)徳川家康が佐倉城主土井利勝に命じて造らせた、船橋−東金間約40kmをほぼ一直線で結ぶ道路であった。
 現在では、その大半が舗装され、また一部農地に変貌して、旧道の面影を残している部分は、ここ八街市沖地区と東金市滝地区のみで、極めて貴重であるため、平成15年2月19日に市指定文化財として指定した。
 発掘調査の結果、台地から谷津に至る斜面部は地山を切り開き、出た土を利用して谷を埋め、版築を施して土橋状に盛り上げて構築されていることが確認された。
 また、当初の道路幅は2〜4mであることが判明し、部分的に排水のための溝(暗渠)が
造られていることも確認された。
※御成街道跡は、長い間地元の土地所有者の方々に守り続けられた貴重な文化財です。人が歩くことによって少しずつ遺跡が壊れてしまいますので、むやみに入らないようにしましょう。
平成16年12月20日 八街市教育委員会 
八街市文化財審議会

上砂(かみいさご)の一里塚の説明板
「八街市指定文化財(史跡)御成街道の一里塚」
この塚は、慶長18年(1613)に徳川家康が佐倉城主土井利勝に命じて造らせた御成街道の一里塚である。
 一里塚とは、街道沿いに一里ごとに設けられた里程標で、江戸時代には徳川幕府による街道整備政策の一環として全国の主要街道に設置された。塚上には松や榎が植えられ、
寒暑や風雨を避けるための休憩場所にもなった。
 船橋から東金にいたる御成街道には8カ所の一里塚があったとされるが、現存するものは、ここ上砂と千葉市千城台東、富田町の3カ所のみである。
 これらの一里塚は、まっすぐに街道を結ぶための目印として築かれたと考えられており、それぞれの塚の距離は約4.7kmである。
 江戸時代初期に築かれ、ほぼ原形をとどめた状態で現在まで残されているこの一里塚は、江戸時代の交通文化や、徳川幕府の政策を具体的に知る上で極めて貴重な文化財である。
※この一里塚は、土地所有者が長い間守り続けてきな貴重な文化財です。塚に登ると土が崩れてしまいますので、絶対に登らないでください。
平成20年3月 八街市教育委員会 
八街市文化財審議会

滝台の説明板
「御成街道」
御成街道は、慶長18年(1613年)、徳川家康が佐倉城主土井利勝に命じて造らせた街道で、近隣九十数ケ村の農民を動員し、昼は白旗、夜は提灯を掲げて昼夜を問わず突貫工事で一晩のうちに、または三日三晩で完成したという伝承があり、別名「一夜街道」や「提灯街道」、また家康にちなんで「権現道」などとも呼ばれている。
 この街道は、将軍の鷹狩りのために使用され、家康、秀忠、家光の三代将軍が鷹狩りに興じた記録がある。しかし、単に鷹狩りのための道ではなく、軍事等の政策上の意図があったとも言われている。
 街道は船橋−東金間約40kmをほぼ一直線に結んでいたが、今では大部分が拡幅舗装や耕地整理等により姿を変えたり消滅してしまい、旧街道の面影を残す場所は八街市沖地区(一部市指定史跡)と東金市滝地区の山林の中のみとなってしまった。
 なお、ここから西へ約1kmの場所に「一里塚」が残り、東へ約500mの場所に鷹狩りの一行が池の水で髪の乱れを整えたとの言い伝えのある「びんだらい池」がある。
平成18年1月 八街市教育委員会 
八街市文化財審議会

油井の説明板
「東金御成街道の関係史跡」
<歴史的概要>
 慶長18年12月(1613)、徳川家康から東金辺での「鷹狩り」の命を受けた佐倉城主土井利勝は,船橘から東金までの沿道にある97ケ村の農民を動員し、翌年1月に「道法八里余り」(約37km)の「東金御成街道」を完成させました。
 東金の滝地区からは旧道を利用したといわれ、右図のルートが現在有力となっています。とくにAの所で分岐し、2ルートとなっていますが、本街道に関する資料が南ルート(赤色)に多く残り、本道の可能性が高いと考えられています。また東金では、家康の鷹狩りの際に「文珠組」を組織し、その組織の鳥見役(鷹場を巡検して鳥の所在を追跡する役人)には油井村大豆谷村・台方村の者がみられ多くは元酒井家の家臣であったといわれています。
@古道跡:
この場所は廃道となり山林の中に痕跡が見られますが、散策するには厳しいです。享保7年(1722)の『下総牧図』(東京都世田谷区満願寺蔵)には、この道に沿うように「上総下総国境土手」が油井村入ロまで描かれています。
A道祖神:
道標を兼ね三面に以下の内容が刻まれていますが制作年代は不明です。
(正面)是より下ハ東金道 是より上ハ左(佐)倉道
(右面)油井村 (左面)是より西 江戸道
Bおあし坂:
切り通しの道。急な坂道のため、歩幅を広く取り大足で上り下りしなければならないことから、通称「おあし(大足)坂」と呼ばれていた。
この先の谷津田に「土橋」が残っており、当時の街道の面影が感じられます.
C一里塚跡:
数十年前(1970年代か)まで高さ7mほどの塚があり.塚上に一本の黒松が植えられ地元の人たちは「一本松」・「一里塚」とよんでいた。
終点の東金御殿まで約3.9km。
D御成表道:
享保7年(1722)の『下総牧図』には「油井村入口〇御成表道」と記載され、御成街道の本道と考えられます。
E御成裏道:
享保7年の『下総牧図』には「油井村入口〇御成裏道」と記載されています。
F十六石殿:
早野家の屋号。家康が御成りの途中に早野家に立ち寄って休息をとり、その接待のお礼に宅地前の水田十六石をいただいたのが屋号の起こりといわれています。
G火正神社:
元禄11年(1698)創建。幕府が出した火事・消防に関する定めに基づき、現在地に火消大明神を建立したのが起こりといわれています。
火伏の神の迦具上(かぐつち)神が祭神。
H御成橋:
家康の御成に際し、架け替えられたといわれています。
I厳島神社:
石鳥居に元禄3年(1698)9月建立の銘。寛文3年(1626)に日吉神社の隔年の神幸祭に神興の一夜の御旅所と定められています。
J日吉神社:
石鳥居に明暦3年(1657)9月建立の銘。中世東金城(鴇ケ嶺城)の鬼門の守護神として重んじたといわれています。「山王宮社」には、家康の参拝に備えて土井利勝が社殿を再興したと記されています。
I東金御殿:
東金御成街道の終点。将軍(大御所)の宿泊所で現圧の県立東金高校敷地内。
この御殿は、慶長18年(1613)から翌年にかけて、土井利勝の命により代官嶋田治兵断が工事に当たったといわれています。

おあし坂説明板
「おあし坂(東金御成街道)」
現在地(東金市油井)から後方に上る坂が「おあし坂」といわれている東金御成街道の一部である。この坂は急な傾斜であるため、上り下りともに歩幅を広く取り、大足で歩かなければならないところから、この名が付いたといわれる。
 当時の五街道以外の脇往還は勘定奉行支配の街道で、藩や代官などが管理しており、東金御成街道は家康の通る道として、幕府の道路政策に準じて造成されたと考えられる。「おあし坂」の長さは約200mであるが、道幅について佐倉道は二間〜二間半(約4m〜5m )、八街市沖地先と滝台の発掘調査報告書によると4m〜4.5mとあるので参考になろう。また滝から東金御殿までの東金御成街道は既存の道路を整備したといわれており、家康の御成り以前から生活道路として使用されていたと思われる。
 歴史史料では主に、宝永2年(1705)の『裁許図』(東金市道庭石橋家所蔵)及び享保7年(1722)の「下総牧図』(東京都世田谷区満願寺所蔵)に描かれている。
 東金御成街道に関する今後の研究において、貴重な史料といえよう。
平成27年3月 東金市教育委員会

東金城址の説明板
「東金城址」
東西約700m、南北約500mの規模をもつ、半独立丘稜の山城。東金酒井氏の本城として、天正18年(1590)まで機能していたことが確実である(「関八州諸城之覚書」『毛利家文書』、「豊臣秀吉朱印状」『難波創業録所収文書』)。本城の初見は、「鎌倉大草紙」によると、享徳の乱(1454〜82)の初期、美濃より下向した東常縁の家臣浜春利が拠ったとされることである。昭和63年(1988)に行われた発掘では、15世紀末〜16世紀前半頃とされる瀬戸美濃系の播鉢の断片が出土している。標高74mの最頂部に主郭を置き、西側に一段低い細長い第二郭を配する。比較的緩傾斜の北側斜面には、腰曲輪や支尾根の堀切、段差などを設け、防御している。また、西端の尾根に大堀切・竪堀(消滅)を入れ、西尾根続きからの侵入を防いでいる。
 遺構もよく残り、本城に関する一級史料もあることから、東金市の歴史を語るうえ
で、貴重な文化財であると言える。
東金市教育委員会指定第50号
平成7年6月7日指定

東金御殿跡説明板
「東金御殿跡」
東金御殿は、徳川家康による「鷹狩り」の命を受けた佐倉城主土井利勝が、慶長18年(1613)から翌年にかけて、東金代官嶋田次兵右衛尉重次以栢(嶋田治兵衛伊伯)を造営に当たらせました。この御殿は、船橋−東金間に造られた御成街道の終着点にあり、東金辺での「鷹狩り」を行う将軍(大御所)の宿泊施設でした。現在、県立東金高等学校が建てられています。
 東金城があった城山の東麗の敷地(約6,700坪)に玄関、広間、坊主部屋、小姓部屋、書院、鉄砲部屋、弓部屋、老中部屋、台所などの部屋、別棟には鷹部屋、長屋、馬屋、大番所などが建てられました(下絵図)。ほぼ中央に家康専用の部屋があったといわれていますが、家康の所在を明確にしない事情もあり、絵図には記されていません。また、,小池の拡張工事も行われ、谷池(御殿前池=八鶴湖)と上池に分けたといわれています。
 寛永7年(1630)の、大御所秀忠の御成りを最後に鷹狩りは行われなくなり、その後、寛文11年(1671)に東金が幕府直轄地(天領)から福島の板倉藩領となり、御殿は取り壊され、その一部が小西の正法寺(現在の大網白里町)などに移されたとのことです。右絵図と下絵図の大きな違いは、「表御門」と「御裏門」が逆転していることです。元禄4年(1691)の記載がある下絵図の方が当時の状況に近いことから、右絵図は江戸時代後半〜明治時代初期と判断されますが、時の経過とともに御殿跡の役割も変わったことがうかがえます。

日吉神社説明板
「日吉神社」
ここ日吉神社は大同2年(807)、天台宗の開祖最澄が布教のために東国を巡錫したとき、奉持して来た近江国(滋賀県)山王神社の分霊を鎮祭したのが始まりという。明治維新までは神仏習合し、山王権現と称したが、明治元年現社名に改められ同6年郷社に列した。
 参道沿いにそびえる樹齢百年の老杉並木(市指定文化財)が、社歴の古さを物語っている。又、神社の夏祭に演ぜられる東金ばやしは、県指定の無形文化財となっている。
環境庁・千葉県

「日吉神社表参道杉並木
日吉神社には、二の鳥居から本殿までの約200mの表参道あり、その両側には、県下でも屈指の三十九本もの大杉が立ち並んでいる。これが、日吉神社表参道の杉並木である。
 杉並木は、本殿を背にして右側には22本、左側には17本の大杉が並び、御神木としてメ縄が結ばれている「夫婦杉」や、やどり木のある杉などがある。樹高は高いもので約40mもあり、樹の幹周りは4m以上のものが多く、最大で目通り5.30mのがあり、樹齢は約400年と推定されている。
『東金町誌』(志賀吾郷編集、1938年)によると元和元年(1615)に徳川家康が東金に鷹狩りに来た際、時の代官高室金兵衛に命じて、日吉神社を改修させていることからこれらの杉はその折に植樹されたものと推察されている。
 江戸時代からの歴史を重ねながら、今でもたくましく根を張り続けているこの杉並木は、全国でも大変珍しく、非常に貴重な文化財といえよう。
平成28年2月 東金市教育委員会