経緯
東総の九十九里沿岸の耕地は、確たる用水源がなく旱魃に苦しまされてきた。
一方、千葉県北部の利根川沿岸佐原近郊は、低湿地のために水禍の脅威を受けていた。
昭和8,9年の旱魃に続く昭和15年の九十九里沿岸一帯の大旱魃に際し、福岡村(現大網白里町)の村長十枝雄三氏は、 利根川引水事業の決行を決断し、佐原地区の県会議員坂本斉一氏と相謀って、 昭和16年4郡(香取・海匝・山武・長生)51ケ町村の結束を固め、 「両総用排水改良事業期成同盟」の会長となり、その実現を県や国に強く要望し、東奔西走の活動を展開した。
その結果、千葉県当局も旱水害を重視し、「両総用水事業」を樹立。県議会の決議を得て、国に運動した。
当初、国は事業の膨大さを理由に容易に承認しなかったが、十枝氏や坂本氏らの粘り強い請願活動により、 やがて必要性を認め、県営事業ではなく、国営事業が至当であるとした。第2次世界大戦の最中であったにもかかわらず、 国会承認となり、昭和18年に着工した。
しかしながら、戦況の悪化、終戦後のインフレにより、事業は一時停止のやむなきに至った。
昭和22年からは農林省の直轄事業として継続されたが、予算等の制約もあり、事業の推進は苦難の連続であった。
十枝氏や坂本氏らはGHQにも陳情を繰り返し、昭和25年度に5億円の米国対日援助見返り資金を得て本格的な全面着工態勢に入った。
昭和40年に完成した。